道徳心
最近音楽の話をしていなくて申し訳ないのですが、まぁこんなブログ読んでる人もいないので良しとしましょう
道徳心と経済は難しいものですね
最近マイケル・サンデル先生の本にはまっているのですが、自分の意見を固めることができず泣きそうになる日がしばしばあります
小学校の頃それはもう1年生の時からいじめられてる子がいたんです
私はその子をいじめる理由なんてありませんでしたし、仲良くしてました
中学年ぐらいまでその子の欠点はよくわかってませんでした
確かに服が毎日同じとは不潔だとは思って触りたいとは思いませんでしたが、コミュニケーションを取るぐらいなんてことはないと思ってました
その子をA子だとして、クラスメートはA子菌だなんだと言ってA子に触られた人は鬼ごっこの要領で他人になすりつける
私はなすりつけられても動じないようにしてました
もちろんみんながいじめている中私はそれに参加しないと意志を持ち続けるのは苦しいものです、日本人の本質は『赤信号みんなで渡れば怖くない』ですから
でもある日私は気付くんです
何故彼女がいじめられているか
理由はいろいろあって、今でもいじめられて当然の存在とは彼女のことだなと思います
高学年の時には『道徳心』の名の下に正義を手に取り彼女に対するいじめに参加しないようにする
という気持ちが芽生えました
明らかに人間として『差別』の感情が現れています
中学の頃忘れもしない英語の授業で彼女とペアを組むことになった
彼女は忘れ物はするわ人の言うことは聞かないわと言う問題児です
ペアワークなのに寝ている
私のためにならないから起こそうと声をかけると嫌そうな感じで無視をされました
その時私はその子を見限ることにしました
直接関わることも減りましたし、中学生にもなれば露骨ないじめはしませんから自分も参加するしないの選択がなくなって、話しかけられるなどない限り無視をすることにしたんです
その時から私は一つの意見を持ちました
差別することの何が悪いのだろうか
と
差別は分けて考えることであっていじめだとか迫害するだとかそんな意味ないはずです
ならば差別することは悪いことじゃないだろう
人によって対応を変えること、好き嫌いをすること
人間らしい感情でおかしなことなどないのではないかと
よく障害者を差別するなと言いますが差別はするべきです
「健常者」と「障害者」は全く同じ扱いなんてできません
中学校には特別支援学級がありましたからよくわかります
インターネットの有名な画像で正義と公平の違いについてのものがありますがその通りです
差別をすることは正義のための感覚に近い
差別をしないことが平等のための感覚に近い
自分の中では難しいことを考えているつもりで
つまり何が言いたいかと言うと
道徳的な学習は小学生にやらせるのではなく、もっと思考ができる中学、高校、大学などで行うべきなのではないか
と言うことだ
私は残念ながらもうそのような教養を身につけるための学習機関に身を置くことはないだろう
だからこそ、今自分には哲学や道徳を学ぶ必要があると思っているのだ
差別の正しさを強固なものにするために